■昨日はリポーターの取材で朝から出かけた。
9時半からの開会式は実行委員長の挨拶などもあるので居たほうが良いし、
そのうちあれもこれもついつい見ていたら、とうとうステージ発表のすべてを2時前まで見た。
その後、展示やバザーなどを見て会場で食事もしたら、帰宅は3時頃になった。
■ちょっとゆっくりしたらもう夕方からの高校の同窓会へ出かける時間だ。
同窓会は6時から2時間。場所は市内中心部のリーガロイヤルホテルだ。
今年は何かあれば頭に「還暦」がつく。
「○○高校の同窓会はどこですか?」とホテルの人に聞いたら、
「あ!還暦同窓会ですね・・。」といわれた。
もちろん会場内の看板にも書いている。
会の2時間は本当にあっという間で、懐かしい人との再会は楽しかった。6~7年ぶりか。
9クラスのうち140人近くの参加だが、半分には満たない。
それでもかなりの出席率だ。大きな会場一杯の人だった。
分かっているだけで、物故者が22人もいたのには驚いた。還暦を待たずに亡くなるとは若すぎる。
同窓会の初めに物故者へ黙祷とは、悲しい現実だ。
色々な人としゃべり続けて、時間も忘れた。
気付いたらあまり食べていないうちにほとんどの料理が片付けられていた。
写真も撮り忘れた。
8月には小中学校の同窓会があったが、それとはまた違った懐かしさや楽しさがあった。
大学時代ともまた違う。
思うに、高校時代が一番楽しかった。同窓会に参加しても一番落ち着けるのがこの時代だ。
小中学校時代は子供に戻り、「ちゃん」付けで呼ばれる嬉しさもあるが、
高校から広島市へ通学したので、故郷の友とも何だか次第に疎遠になった。
高校のたった3年だけれども、深くて思い出の多い生活だった。
話は定年の内容が多かった。今年の誕生日とともに定年になる人もおり、
既に辞めた人も多かったが、再雇用で働く人も多い。
仲良しの友2人は私のブログをしっかりと読んでくれているので、一から話すこともない。
記事に出来ない箇所をも読み深め慮ってくれているほどの読者には、恐縮、感謝、感動である。
男性は外見に差があり、同級生とは思えないような人もいた。
女性は化粧でごまかせるので、みなきれいに若くしてさほど差がないようだ。
それでも、みな当時の顔を思い出せば誰だかすぐに分かるのだ。
私も「本当に変わらないね~」と言われる。横幅は広がったが、顔だけは昔のままだという。
私を評して「真面目でおとなしい人だったよね。」と言う人がいた。そんな印象だったのか・・・。
喋りまくったのに、それでも意外に多くの人と話していない気もするが、
朝から出ずっぱりなので2次会は失礼して、女性3人で途中まで一緒に帰った。
「5年後くらいにまた会おうね。」「元気でいようね。」が別れの挨拶だ。
▲我が家の菊が咲き始めた。
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美しく歳を重ねるために
■毎朝の散歩の途中で見かける小高い山。
少し離れたところにある説明板によると、
「戦国時代の○○氏居城(△△山城跡)」とあり、○○は字の表記は違うが地元と同じ名前である。
今でこそ市内ではあるが、かなり昔は村であったこの地のかつての城で、
戦国時代の小さな城であったのだろう。
△△と言う名前の家は今でもその近くにあり、子孫に当たるらしい。
最近この山に生い茂った木が切られた。
夏の間は木陰になるので気持ちが良かったが、
大きく伸びた木々は道にまではみ出ていた。
ここは高速道路の入り口にも近くて、車はスピードを出している。
それらに影響も与えると考えたのだろう。
その木の伐採は、まことに大掛かりだった。
造園業者がやって来て、大型クレーンのようなものも出ていた。
交通整理も出て、総勢10人ほどがこの作業に係っていた。
切り出した木も簡単には運べない。クレーンもいるはずだ。
近くにいた人に聞いたら、これは山の持ち主が行ったものだそうで、
かなりの費用がかかっているのが予想される。
伐採した木を少し分けてもらって、シイタケ栽培の木にすると言っていた。
「水分を含んで重いこと重いこと・・・。」
と言いながら、トラクターのようなもので運んでいた。
山一つの管理も大変なものだ・・・・と感じた。
■今日は近所の文化祭のようなお祭りがある。また行ってみなくては・・。
夜は、高校時代の同窓会だ。これはまた明日にでも。
美しく歳を重ねるために
実家の父の所へ
「昼食は外食?それとも何か買って行こうか?」と父に聞いたら、
「外食が良い。」と答えたのでそのつもりだったのに、
お昼になると「お腹もすかないし何だか寒くて出かけたくない・・。」と言う。
そこで急いで惣菜を買いに行って、家で食べた。
確かにこの2日間の寒さで外出はこたえるようだ。
話題といえば、「近所の同級生が亡くなったが、もう葬儀には行けそうにもない。」
・・とか、こんな話ばかりだ。
私は「義理よりも自分の体を労わらなくては・・。」と話した。
90歳にもなれば義理を欠いても失礼にはならないだろう。
いつもどおりの家事をして、灯油を2缶買ってきた。
これでいつからでもストーブが焚けると父は喜んだ。
それと、先週から先延ばしになっていた柿もぎをした。
毎年恒例の行事だ。今年は猛暑のせいで実家の柿は不作だ。
せっかくなった実もぽたぽたと落ちて、残り少ない実を鳥が盛んにつつきに来る。
それでも、全部収穫したら70個近くはあった。
でも、小粒であまり甘くない。
家に持って帰ったら、夫は柿が大好物なので喜ぶ。私も好きなほうで、2人で食べる。
今時は世間では柿も人気がない。
リンゴやみかんですら、皮を剥く果物を敬遠する傾向だそうで、
人気はバナナのような簡単に皮がむけるものだ。
キーウイも2つに切ってスプーンですくって食べられるので人気だという。
果物にも人気の変遷があるのだ。
昨日は防寒用に厚着で行ったのに、柿もぎをしたら体が結構温まった。
美しく歳を重ねるために
地元・中国新聞の「タウンリポーター」になった。
前々から関心があったので、応募したら採用されたのだ。
地元の小さな話題を発掘するのが狙いで、
記事を書いて写真を添付してメールで送信する。
送っても記事の採用は約束されていない。まあ投稿のようなものだ。
初めての取材記事が、この度めでたく新聞に掲載された。
WEBにも載っている。署名入りだ。
地元ネタの行事を書いてみたのだ。
ブログ記事と違って、気を使う。
まずは名刺を出して責任者に挨拶をするところから始まる。
事実は正確を期さねばならないし、色々な人にもインタビューしなくてはいけない。
断片的な観察だけでは済まないのでずっと居たら、時間も何時間もかかる。
今回のは11時スタートから、昼に少し家に戻って、最後の閉会式まで居たら4時半になった。
近所の行事だからこそ出来る事だ。
ブログでは思い込みで書くこともある私なので、要注意だ。細心の注意が要る。
苦労して書いても、狭いスペースなので、
書いた文章をかなり切られるが、致し方ない・・・か。
でも、夫は「さすがにプロだ。短くするにも上手くまとめたものだ。」と感心している。
この季節は催し物が多いので、今のところ予定が多い。
忙しくなる・・・。
美しく歳を重ねるために
もうかなり前になるが、10月初旬に広島の東照宮にも出かけた。
広島城や護国神社、砂持加勢まつりなどを巡った後のことだ。
我が家はこの何年か、新年の初日の出を拝むために
ここからスタートして二葉山に登る事にしている。
広島駅裏周辺には数多くの神社やお寺があるが、この東照宮は一番馴染みがある。
現在、唐門と翼廊は保存修理工事中である。3年掛けての大掛かりな工事である。
工事の様子を覗かせてもらった。なかなか見る機会のない貴重なものだ。
2年前の記事。
階段の改修工事中の記事だ。「平成の大修理」について書いている。
2億8000万円をかけての大工事だそうだ。
拝殿
本殿
広島東照宮は原爆にあっている。
爆心地から2.3キロで、その時本殿や拝殿は焼失したが昭和40年に再建された。
昭和10年頃の写真があった。
大正後期~昭和初期の花見の様子。今はこのような桜並木はない。
現在の様子。先には広島駅が見える。駅裏にしては緑が広々と見えるが、一面に官舎があったが立ち退き、今は更地になっている。いずれマンションが建設されるのだろう。
東照宮の裏手に、安産の神様の御産稲荷社があるのは知らなかった。
■東照宮について調べてみた(Wikipediaより)
江戸幕府によって建立された日光、久能山などをはじめとして、各地の徳川・松平一門大名家、さらには譜代大名、外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた。明治維新以後に廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。
全国の東照宮
このように全国には東照宮はかなりの数あるようだ。
平素よく見る身近な東照宮だが、こうしてじっくりと見てみると、良い勉強になった。
美しく歳を重ねるために
■急激に寒さが来た。本当にあまりに急だ。
ついこの前まで暑かった気がしていたが。
昨日は北海道の降雪の様子をニュースでやっていた。
今朝はさすがに10度を下っていて、寒さも一段とこたえた。
冬型の気圧配置になり、最高気温も晩秋から初冬並みと新聞に出ていた。
11月中旬から下旬くらいか。
例年10月末頃でも、晴れておれば動くと汗の出ることもあったのに。
■寒さと暗さで、朝の目覚めが遅くなり、
あまり暗いと嫌なので、
6時前後に目覚めても30分くらいは本を読んで時間を過ごす。
寝過ごして7時前に起きたら散歩は後回しで朝食作りに入る。
出勤するわけではないのだから気にする事はないのだが、
朝食があまり遅くなっても気になるのだ。
朝食後に散歩に行こうとすると、すぐというわけにはいかない。
満腹状態では歩きにくい。
と言う事で、やはりこれまでどおり7時までには散歩を済ませたい。
夏の汗が出る頃のことを思えば、今は寒いが動いているうちに温まってくるので良い。
冬の散歩は出るまでは決心が要るが、一旦出ればそう苦にはならないのだ。
■この寒さも一時的で、また少しは緩んでくるのだろ。
暖房もまだ早いのではなかろうか。
学校に勤めていた頃は、
12月初旬の定期テストの頃にストーブを出すのが慣例だった。
我が家もこたつは毎年11月下旬くらいに出していたように思う。
今夏の酷暑といい、気候のあまりの不順は嫌になる。
夏は夏らしく、冬はそれなりに冬らしくが良い・・・極端なのは嫌だ。
四季の美しい日本だが、真夏と真冬の気温差はかなりのものだ。
それに耐えるのだから大変だが、これ以上「異常気象」が続くと耐えられなくなる気がする。
美しく歳を重ねるために
NHKの「歌謡コンサート」を見ていたら、何と懐かしい歌手が出演していた。
私は歌は大好きと言うわけではないが、この番組は夫がよく見ているので私も横で聞く程度だ。
秋川雅史さんも出ていたので、いつになく見てしまった。
出ていたのは梶光夫さん、歌は「青春の城下町」だった。
歌を聞いていると、私はこれをしっかりと覚えていた。
流れる雲よ城山に のぼれば見える君の家・・・・・・
ああ青春の思い出は わがふるさとの城下町
出だしと最後の部分は歌詞もしっかりと頭に入っていた。
梶さんは当時(昭和39年)20歳。
ジャケットの写真はまさに紅顔の美少年だ。
今は66歳になる計算だ。いい歳をとった品の良い老人になっていた。
当時私は中学生だ。どうしたことかこの歌をよく覚えている。かなりのヒット曲だったようだ。
5年だけと言う約束で芸能生活をきっぱりと辞めて、
その後家業の宝石商を継いだという。
歌う声は今でも若々しくて、当時を髣髴とさせるものがあった。
・・とはいえ、この人や歌を知っている人は、もう60歳代以上ではなかろうか。
歳月は何とも如何ともしがたい。歳月は人を待たず・・・だ。
何だかジーンときてしまった。
美しく歳を重ねるために
今日の夕食
珍しいパプリカ。黄色ではなくてまるで白いような薄黄色だ。↑
長いこと食事の記事を書いていなかった。
「よく堂々と載せる事が出来るよね・・・。」などという家の外野の声もあり、
いつの間にか載せなくなった。
まあ、私のブログは料理ブログでもないし、
毎日他にも書くことが多くて、献立を載せなくても事足りることもある。
それに・・毎日几帳面に載せるためには、
根気も要るし、適当な献立と言うわけにはいかない。
と言う事で、今日はどうしたことか・・・暇に任せて載せてしまった。
美しく歳を重ねるために
先般<オタフクソース見学>をした記事を書いたら、大きな反響があった。
その1週間後、Yahooのトップページの地域情報の「街ネタ」に紹介されたようで
さらに思わぬ数のアクセスが続出したのだ。これは桁違いの2000以上の数だ。
そのことをオタフクソースの会社のHPを開き連絡をしたら、
早速丁寧なお礼のメールが届いた。
当日案内をしてくれた女性からである。
見学後にも早速ハガキの礼状が来ている。
さすがオタフクさん、お客様サービスが行き届いている。
発展する会社はやはりどこかが違うものだ。
美しく歳を重ねるために
10月23日(土)日帰りドライブ
■島根県吉賀町桟敷の「紅そば」の畑を見た後は、
<柿木村の柿木温泉・はとの湯荘>へ行った。
ここは前にも来たことがあった。茶色の湯で本格温泉だ。休憩も出来る。
久しぶりの温泉入浴でさっぱりとした。
■この後、更に北上するともう津和野町へ入る。
途中東に向かって高津川の支流沿いに山奥深く入ると<杣(そま)の里よこみち・杣の館>はあった。
廃校を利用した自然体験宿泊交流施設で、そこでそばを食べさせてもらった。
そこで働く地元の女性4人組は気さくに話しかけてくれた上に、
ブログに写真を載せるというと皆揃って並んでくれたのだ。
最近、NHKの番組で俳優の中本賢さんが
清流日本一の高津川をバイクで巡るという旅をやっていたことを夫は記憶していた。
その時中本さんや番組スタッフ一同はこの廃校に宿泊していたのだ。
これは旧横道小学校をそのまま生かしたものだ。
20人前後が泊まれる部屋は、元教室だ。それが2部屋ある。
離れには校長先生の宿舎が残っており、ここも泊まれるようになっていた。
昔平家の落人が住んだ山里で、すぐそばの安蔵寺山の木材を切り出したきこりの里という。
杣とはきこりの意味だ。「杣の里」の名前のゆえんだ。
茗荷の花が珍しいといって見せてくれた。
帰る時には20周年で作ったというハンドタオルを2枚下さった。
温かいもてなしで気分が良かった。
■■これにて島根県吉賀町と津和野町の
「紅そば」「柿木温泉」「杣の里よこみち」とを巡った日帰りドライブ記録は終了。