教育(いじめ、改革など)を考える
2006.10.28(09:14)
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●このところ教育に関することが、かまびすしい。
かかわりのある者としては、一言書かねばならぬが、
関わりがあるだけに、かえって書けない思いもある。
関わりがあるだけに、かえって書けない思いもある。
●「いじめ」・・これは今に始まったものではないが、
このところ自殺にまで発展し、社会問題化している。
いじめはどうあっても許せない問題だ。
いじめられた者の思いは根深く、死を持って終結せねばならないとはあまりに残酷すぎる。
このところ自殺にまで発展し、社会問題化している。
いじめはどうあっても許せない問題だ。
いじめられた者の思いは根深く、死を持って終結せねばならないとはあまりに残酷すぎる。
学校、教師、教育委員会などへと問題追及が広がっているが、
もちろん責任は逃れられるものではない。
しかし、メディアの方向性でこうなった嫌いもあるのか、
集団ヒステリー的に責任追及に及んでいる気がする。
もちろん責任は逃れられるものではない。
しかし、メディアの方向性でこうなった嫌いもあるのか、
集団ヒステリー的に責任追及に及んでいる気がする。
福岡のいじめ問題では、いじめた側が自殺した生徒を、死後もなお
「死んでせいせいした。」とか、
通夜の最中、お棺の中を笑いながら見ていたなどということを聞き、
もうあきれてしまって、言葉にならないのである。
「死んでせいせいした。」とか、
通夜の最中、お棺の中を笑いながら見ていたなどということを聞き、
もうあきれてしまって、言葉にならないのである。
関係者の責任問題は継続するとして、
いじめた子供たちの指導をさらに続ける必要があるのではないだろうか。
心が病んでいるとしか言いようがない。
いじめた子供たちの指導をさらに続ける必要があるのではないだろうか。
心が病んでいるとしか言いようがない。
そうなった背景には、大人の影響があることはもちろんである。
子どもは親の鑑なのだから。
世をあげて、心の問題を深く考えていかなくてはならない。
それは、学校だけでなく、あらゆる場面で自分のこととして考えなくてはならないのだ。
子どもは親の鑑なのだから。
世をあげて、心の問題を深く考えていかなくてはならない。
それは、学校だけでなく、あらゆる場面で自分のこととして考えなくてはならないのだ。
●管理強化・・ここ5年間で、教育の世界は大きく変化した。
新教育課程により週5日制が始まり、総合的な学習が導入されたり、
学校評価だの、教員の自己申告制だの、
あらゆるところで改革が進んでいる。
そのどれもが、現場の意見はほとんど通らず、
上からの押し付けである。
現場の教員はもちろん毎日を汲々と送っているのはもちろん、
そのことは子ども達とて同じである。
新教育課程により週5日制が始まり、総合的な学習が導入されたり、
学校評価だの、教員の自己申告制だの、
あらゆるところで改革が進んでいる。
そのどれもが、現場の意見はほとんど通らず、
上からの押し付けである。
現場の教員はもちろん毎日を汲々と送っているのはもちろん、
そのことは子ども達とて同じである。
管理職である校長でさえ、今の現状を決して良いとは思っていなくて、
もっと現場の意見を聞いて欲しいと考えているのが大多数だと聞く。
それでも、管理職は上に逆らえず、仕方なしに下に下ろす。
現場では、毎日の忙しさに追われそのことを深く考える暇もなく、
どんどん改革は進んでいるのが現実だ。
もっと現場の意見を聞いて欲しいと考えているのが大多数だと聞く。
それでも、管理職は上に逆らえず、仕方なしに下に下ろす。
現場では、毎日の忙しさに追われそのことを深く考える暇もなく、
どんどん改革は進んでいるのが現実だ。
昔の、のどかなゆとりある学校は今はもうない。
すべては成果主義で、数に表れねばならないのだから、
みんながあくせくしている。
教育の世界は甘い!などと社会は見ているという理由を大義名分に、
すべてが一般社会並みに結果を求めさせられている。
すべては成果主義で、数に表れねばならないのだから、
みんながあくせくしている。
教育の世界は甘い!などと社会は見ているという理由を大義名分に、
すべてが一般社会並みに結果を求めさせられている。
教育はそんなものではないのではなかろうか?
まだまだいくらでも言いたいことはあるけれど、
長くなるので、今回はここまでとしよう。
長くなるので、今回はここまでとしよう。
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